Fecha: 14/01/2014 Vuelo: Interjet 2900 Origen: México DF (MEX) Destino: Habana (HAV) Salida: 11:30 AM Llegada: 15:00 PM
2014年1月14日、インタージェット2900便 メキシコシティ国際空港(午前11:30)発 – ハバナ ホセ・マルティ国際空港 (午後15:00)着
機内にうすい白煙。きっとエンジンか何かを冷却するラジエーターから発生した気体だと自分に言い聞かせる。着陸と同時に拍手。夕暮れ時ののどかな空港。黄色とブルーのコンビネーション。メキシコで鍛えたはずのスペイン語はことごとく通じない。アクセントの違いでもあるのだろうか。期待したタンゴやサルサのかかっていないタクシー。窓からは湿度高めのむっとする風と排気ガスと騒音。赤いサイドカーに老女。紙に書いた宿の住所は何もない路地だったが、車通りが激しく荷物とともに下ろされる。扉とも言えなくもない扉の横にある、ベルとも言えなくもないベルを何度か鳴らすと扉が開いた。三階から降ろしたヒモでつ錠を開閉するからくり。高い天井、質素で薄暗い宿の室内に不釣り合いなスペインコロニアルな建物の装飾。どこからかくぐもったトランペットの音。窓から通りを眺める親子。犬の糞を器用によけて歩く人々。
長いこと滞在しているメキシコシティのホステルに荷物を預けて1週間のキューバ旅行へでかけた。そもそも長い旅行中なので旅行もへったくれもないけれど、ポートランドでの一カ月はほとんど取材とリサーチで精神的に落ち着かない日々を送っていたし、カナダのリッチモンドでは丸一カ月部屋に籠もりっきりだった。そしてメキシコに入ってからはさらなる取材と本の販売に追われていて、日本を離れて半年、いまだ純粋に旅行的な開放感や胸の高鳴りを味わう機会を持てていなかった。だからと言うわけでもないけれど、せっかくカリブ海を挟んだ対岸にあのキューバがあるのだ。これは行かない手はないだろうということで、格安チケットを購入し、ホステルに沈殿中の旅人たちから情報を集めてキューバへ飛ぶこととなったのだった。
濡れた路上の水たまりには、くるくるとリンゴの皮のように剥かれたみかんの皮が何度も車に敷かれて異様なカタチで漂っている。何度も塗り重ねられたパステルカラーの壁とヴィヴィッドな窓枠。路地に面する住宅の窓から窓へ渡された洗濯物を干すヒモは窓の脇に設置された滑車を介してスルスルと旅行者の頭上を人知れずスライドしている。窓からヒモをつけた小ぶりのバケツや麻袋を吊り下げ、路地で構える知人へ何かを渡し、代わりに何かを受け取っている。狭い路地に反響する色々な音。良いものはトランペット、誰かを呼ぶ声、路地で遊ぶ子供の声。悪いものは犬の鳴き声、車のクラクション、バイクの音。排気ガスは想像以上にキツい。路地の建物の一階部分は黒く燻されている。
実は今回のキューバ旅行には、ひとつ課せられた任務のようなものがあった。それはマイカという名のカナダ人にハバナの安宿でIDカードを手渡すという簡単なものだったが、インターネット環境のないキューバでは少し困難なことにも思えた。メキシコシティのホステルではドミトリーという一部屋に2段ベッドが3台、計6人が泊まれる部屋に滞在していた。僕らの隣のベッドで寝ていた男がそのマイカという名のカナダ人だった。彼とはおよそ3週間、飲み食い行動を共にしていて、かなり仲良くなっていた。マイカはあるエージェントに登録しており、そこから旅先での語学講師の仕事を斡旋してもらい、半年ほど働いては移動をするという旅をもう2年続けているという。彼は僕らより1週間前にキューバに発ち、その後南米へ上陸、ペルーからボリビア、アルゼンチンと南下し、ブラジルで次の職場で働く予定になっていると言っていた。ところが、その仕事を受けるために必要なIDカードのようなものをメキシコシティのホステルに忘れていたのだ。僕がキューバに発つ前、滞在中預けていたパスポートをホステルから受け取る際に、彼のカードが偶然目に入りそのことに気づいたのだ。前述したとおり基本的にキューバにはインターネット環境はなく、ごく限られた高級ホテルでしかアクセスできない。どうやってマイカに連絡を取ろうかと途方に暮れていた時、偶然にも彼からキューバの青い海の写真と呑気なメッセージがFaceBook経由で届いた。そして彼はネット回線を得るためにとある高級ホテルのロビーにいることがわかった。僕は、すかさず彼が大切なカードを忘れていること、そしてハバナでそれを渡すための場所や時間を打ち合わせたのだった。
楽しみにしていたマレコン海岸に打ち寄せ道路へぶち当たる波のしぶきを見ることはなかった。片言の日本語で寄ってくる男は大抵どこかへ連れて行こうとするか、煙草をせがむ。生活感漂うキューバ人が行き交う路地と隣り合わせの観光客ひしめく路地。兌換ペソCUC。二重通貨。対米意識とオールドカー。人民ペソで買う蠅のたかるサンドは驚くべきチープな味わい。パサパサのパンに合成肉とチーズ。早朝の立ち飲みカフェ。砂糖たっぷりのコーヒーはブラジルのカフェジーニョそのまま。オレンジ色のレトロなポット。観光客で賑わうレストラインはどこもChan Chanを熱唱。盛り上がって口笛など吹けば歌い手のパナマ帽に小銭を入れるかCDを買うかの選択を迫られる。
今にも崩れ落ちそうな建物の3階が、マイカが宿泊しているというカサ・パティクラルだった。カサ・パティクラルとは、キューバの民間人が経営する民宿のようなもので、大抵は自宅の空き部屋を利用して運営されている。通常は入り口に白地にブルーのペンキで錨を逆さまにしたようなマークを掲げているはずだが、この建物にはそれが見当たらず見つけ出すのにとても苦労した。もしかしたら否認可営業なのかも知れないと思ったが建物の3階と4階部分におよそ6部屋があり、しつらえも立派な部類に入るものだった。3階にリビングとキッチンがあり旅行者はそこでくつろいだり食事を摂ったりすることもできる。僕らはなかなか伝わらないスペイン語で友人のカナダ人がこの宿に泊まっているはずだと伝え、いよいよマイカのいるはずの部屋へ案内されたのだった。ドアを開けるとマイカは大きな体をベッドに横たえていた。僕らの到着に気づくと信じられないといった顔で起き上がると、いつもの人懐こい笑顔で僕らは抱き合って再会を喜んだ。この一週間は、ハバナを離れビニャレスという田舎町を旅していたというマイカは少し体調を崩してはいたが、その夜は旅先で知り合ったというフランス人の女性ふたりと合流し、安くてうまいと評判の新鮮なシーフードを出すレストランで食事をした。キューバからメキシコシティへ戻り、南米を南下する予定だった僕らは、同じルートで南下するマイカと南米のどこかで会える気がしていた。旅先でばったり、どこか別の国で出会った人と会うことがある。その時はこんな広い世界での巡り会いに奇跡を思うこともある。だけどそれは錯覚で、同じ感覚を持つ旅人たちはだいたい同じような場所を訪れるものなのだ。もちろんタイミングを考えると奇跡かもしれないけれど、イメージすべきは面ではなく点なのだ。そんなことを体感的に感じていたので方角もタイミングもさほど違わないマイカとの今後の再会はそんなに難しいものではないような気がした。だから翌日、ハバナを一度離れる僕らの別れは一生の別れという様相はなく、「じゃ、またね」といった程度のものだった。あるいは、そうしないとやはり別れは辛く堪え難いものだったのかも知れない。僕らは見送るマイカをハバナに残し、トリニダーへのバスが発車する高級ホテルを目指した。
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