滞在しているメキシコシティのホステルに荷物を預け1週間のキューバ旅行へ出かけた。そもそもが長い旅行中のようなものなので旅行もへったくれもないけれど、とにかくカリブ海の対岸に憧れの楽園があるのだ。今行かずにいつ行くのだ。僕らは早速安い航空券を購入し、ホステルに沈没中の旅人たちから情報を集め、キューバへ飛ぶこととなった。キューバ渡航にあたって、ひとつ小さな任務のようなものがあった。それは先にキューバ入りしている友人にハバナでIDカードを手渡すという簡単なものだったけれど、インターネット環境が無いに等しいキューバでは少し困難なことにも思えた。メキシコシティのホステルで相部屋だったその友人はマイカという名のカナダ人で、彼と妻と僕の3人はいつも行動を共にしていた。彼が1週間前にホステルを発つ時には涙ながらに別れを惜しんだ仲だった。 そんなマイカはある語学エージェントに登録していて、旅をしながら世界各地の語学学校で英語講師の仕事を請け負う生活を2年ほど続けていた。メキシコを発った彼は、キューバを経て南米大陸を縦断し、ブラジルで次の職場に就く予定になっていると話していた。ところが、その仕事を受注するために必要なIDカードをホステルに置き忘れていたのだった。厳密には僕らがキューバへ向かうため荷造りしている時、ベッドの下から偶然見つかったのだ。本人が失くしたことに気づいていないことも考えられるので、出来るだけ早く知らせる必要があった。しかし彼は僕らがキューバへ向かうことは知らないし、連絡手段がとにかくない。南米の郵便事情を考えると、この機会にキューバで手渡しできれば一番確実とは思ったが、泊まっている宿に見当をつけるのはほぼ不可能だ。半ば諦め、仕方なくいまいち信用の置けない宿の主人に、後日マイカ宛に郵送を頼んでおこうかと思案していたまさにその時、タイミング良く彼からキューバの青い海の写真と、呑気なメッセージがFacebook経由で届いた。仕事のメールを受信するため、ハバナの高級ホテルのロビーから接続しているという。僕はすかさず彼が大切なIDカードを忘れていること、そしてそれを渡すための場所と日時を打ち合わせたのだった。
今にも崩れ落ちそうな建物の3階が、マイカが宿泊しているというカサ・パティクラルだった。カサ・パティクラルとは、キューバの民間人が経営する民宿のようなもので、大抵は自宅の空き部屋を利用して運営されている。通常は入り口に白地にブルーのペンキで錨を逆さまにしたようなマークを掲げているはずだが、この建物にはそれが見当たらず見つけ出すのにとても苦労した。僕らはたどたどしいスペイン語で友人のカナダ人がこの宿に泊まっているはずであることを宿の主人に伝え、ようやくマイカの滞在する部屋へ案内された。ゆっくりドアを開けるとマイカは大きな体をベッドに横たえて眠っていた。僕らの到着に気づくと信じられないといった顔で起き上がり、いつもの人懐こい笑顔で僕らを抱きしめ再会を喜んだ。 この一週間は、ハバナを離れビニャレスという田舎町を旅していたというマイカは少し体調を崩してはいたけれど、その夜は旅先で知り合ったというアルゼンチン人の女性ふたりと合流し、安くてうまいと評判の新鮮なシーフードを出すレストランで食事をした。 僕らは、同じルートで南米を南下するマイカと、この先またどこかで再会できるような気がしていた。旅先でばったり、どこか別の国で出会った人と再会することが稀にある。その時は、こんなに広い世界で! とその巡り会いに奇跡を思ったりもするけれど、それはきっと錯覚で、同じような感覚を持つ旅人たちはだいたい同じような場所を訪れるものなのかも知れない。限りない地平をさまよい歩くような旅は、あまりにも非合理的で、ある意味とても贅沢だ。たいていは最短ルートで観光地や交通の要所を繋いでゆくものだろう。そんなことを体感的に感じていた僕は、方角もタイミングもさほど違わないマイカとの再会はそんなに難しいものではないような気がしていた。だから翌日、ハバナを一度離れる僕らの別れは一生の別れという様相はなく、「じゃ、またね」といった程度のものだった。あるいは、そうしないとやはり別れは辛く堪え難いものだったのかも知れない。僕らは宿の窓からいつまでも手を振るマイカをハバナに残し、古都トリニダーへと向かうため、バスターミナルへと急いだ。